2005-12-16

『フランダースの犬』を考える




夜中に小腹が空いたので、編集者Yさんとコンビニデザートで休憩中のことである。

「『フランダースの犬』の実写版には、エンディングが二つあるんだって」
Yさんが切り出したネタに、一瞬、食いつこうか流そうか躊躇った。が、あの『フランダースの犬』に二つのエンディングがあったとは、若干、興味が湧く。

『フランダースの犬』といえば、多くの日本人にとっては涙する名作にあげられるだろう。しかし、わたしには、特別な感銘を受けずに通り過ぎた作品である。
けっして、つまらない話だと言っているのではない。個人的に、特別なお気に入りではないというだけのことだ。

あの物語に「感動した!涙した!」と盛りあがることができる人は、大抵、テレビアニメの『フランダースの犬』を話題に持ち出す。
ところが、わたしはテレビシリーズ「世界名作劇場」を観ていない。その頃、ウチは貧しくてテレビが買えなかったのだ。
というのはウソだけど、我が家は裏番組を観ていて、わたし自身、何としても『フランダースの犬』が観たいと主張するほど観たいとは思わなかった。
だから、涙と感動の平均視聴率25%の人気アニメが話題に出るたびに、「ああ」とか「ほぉ」とか頷きつつ口を噤み、その場の盛りあがりが治まるのを待つ。

『フラ犬』ファンには申しわけないが、そもそも、あのアニメの画風が好ましくない。
ネロもパトラッシュも、ガールフレンドのアロアちゃんも、「善意しか知りません」みたいな顔をしている。ようにわたしには見える。
根の優しさだけを前面に出した表情が、子供ごころに違和感を感じていた。
それに継ぎを当てたネロのズボン。
正直なところ、わたしは貧しさと優しさが売りのネロ少年に心ときめかなかったのだ。
違和感と偏見をいまだに引きずり、ポイントを貯めると絵皿がもらえるコンビニのキャンペーンのときも、『フランダースの犬』シリーズだけは避けたくらいである。
仕方なく2枚だけもらうはめになったので持ってはいるが、戸棚の出し難い所に収まったままになっている。

しかし、実写版映画の二つのエンディングは、映画好きのわたしの気を引いた。
一つは、お馴染みの「ネロ少年が死んでしまうバージョン」。
もう一つは、主人公ネロが死なない「ハッピーエンド版」があるそうで、この二つの結末は、各国の配給会社が好きなほうを選択できるシステムになっている。
で、日本公開版は、お馴染みのネロが死んじゃう結末のほうである。

さて、話は続く。
その昔、Y少年は、ネロが死んでしまう結末に、
「なんて可哀そうなお話なんだ! 
 何のために、こんな悲しいお話を本にするんだ!」
と読んでいた本を放り投げたという。

「可哀そうかなあ……」
いつもなら、口を噤んでいるところだが、思わず言ってしまった。

そう、わたしは、ネロ少年が死んでしまう結末を、あまり可哀そうと思っていないのだ。これが、『フランダースの犬』ファンの輪に入れずにきた理由なのだろう。

小学校3年か4年の頃、『フランダースの犬』を読んで印象に残った場面を描きなさいという課題が出た。
おそらく、わたしはその課題のために、少年少女向けの翻訳版を読んだに違いない。
そして、描いたのは、大聖堂のホールに架かる絵をネロとパトラッシュが見上げるシーンだった。
涙のクライマックスの導入部ともいえるシーンだが、わたしは、ネロが可哀そうでその場面を描いたのではない。
美しい光景が浮かんだから描いたのだ。

「ひと目でも素晴らしい絵を見たい」
少年の願いが叶うシーンは、幼い人生の美しいクライマックスだと、わたしは思う。
願いが叶った最期なら、命が尽きても少年は幸せだったじゃないか、と思うのだ。

実写版映画のハッピーエンド版は、絵のコンクールで評価されなかったネロが、自分はこの世に生きる価値のない人間だと思って失いかけた生命力の灯を取り戻す、というストーリーになっているらしい。
こちらのエンディングだったら、子どものわたしは、もっと感銘を受けたかもしれないなあ。